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宮城県・仙台市にあるプロスポーツチームを紹介するシリーズ。
記念すべき第1回は、プロ野球球団「東北楽天ゴールデンイーグルス」です。
いまでこそ「楽天イーグルス=仙台・東北の球団」というイメージは当たり前になっています。
しかし、その誕生までの道のりは、決してきれいな物語ではありませんでした。
きっかけは、2004年に起きた「球界再編問題」。大阪近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブの合併をめぐり、日本プロ野球は12球団制そのものが揺らぐ大きな岐路に立たされました。
そこに飛び込んできたのが、ライブドアと楽天という2つのIT企業です。
しかも、最初に仙台で大きな注目を集めたのは、楽天ではなくライブドアでした。
なぜ、もともと仙台に縁が深かったわけではない楽天が、東北・仙台を本拠地にすることになったのか。
そして、どのような混乱と苦難を経て、2005年のスタートを切ったのか。
この記事では、東北楽天ゴールデンイーグルス誕生の舞台裏を、できるだけわかりやすく、そして少し人間くさく振り返っていきます。
プロ野球消滅の危機?近鉄・オリックス合併と1リーグ制構想
物語の引き金は、2004年6月に表面化した大阪近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブの合併問題でした。
当時、近鉄は深刻な経営難に苦しんでいました。球団経営の継続が難しくなる中で、オリックスとの合併話が進みます。
しかし、この合併は単なる1球団同士の話では終わりませんでした。
もし近鉄とオリックスが合併すれば、パ・リーグは6球団から5球団になります。そうなると、従来のセ・リーグ6球団、パ・リーグ6球団による2リーグ12球団制の維持が難しくなります。
さらに当時は、球団数をさらに減らし、1リーグ制へ移行する構想も取り沙汰されました。
ファンから見れば、応援してきたチームがなくなるかもしれない。選手から見れば、働く場所が減るかもしれない。地域から見れば、プロ野球文化そのものが縮小してしまうかもしれない。
日本プロ野球は、大きな転換点に立たされていました。
古田敦也選手会長とプロ野球史上初のストライキ
この動きに対して、強く反発したのが日本プロ野球選手会でした。
当時の選手会長は、ヤクルトスワローズの古田敦也選手です。
選手会は、球団合併や1リーグ制への流れに対し、選手やファンの声が十分に反映されていないとして、NPB側と交渉を重ねました。
しかし、交渉は簡単にはまとまりません。
そして2004年9月18日・19日、日本プロ野球史上初となるストライキが実施されました。
プロ野球の試合が、選手たちの意思によって止まる。
これは前代未聞の出来事でした。
ただ、このストライキによって、球界再編問題は一気に社会的な注目を集めます。ファンの間でも「12球団を守るべきだ」「新しい球団を作るべきだ」という声が高まっていきました。
その結果、NPB側は12球団制の維持と、2005年シーズンからの新規参入球団受け入れに向けて動き出します。
ライブドア vs 楽天。“最後の1枠”をめぐるIT企業の争い
近鉄とオリックスの合併によって空いた新規参入枠。
この“最後の1枠”をめぐって名乗りを上げたのが、ライブドアと楽天でした。
いま振り返っても、この構図はかなりドラマチックです。
どちらも当時勢いのあったIT企業。どちらもプロ野球界に新しい風を吹き込もうとしていました。
ただし、世間の空気として先に大きな注目を集めたのはライブドアでした。
先に仙台を熱くしたのはライブドアだった
堀江貴文氏が率いるライブドアは、当初、近鉄球団の買収に意欲を見せました。その後、新球団「仙台ライブドアフェニックス」の設立を申請します。
ここで重要なのは、ライブドアが本拠地として掲げたのが仙台だったことです。
当時の堀江氏は、若く、勢いがあり、メディア露出も抜群でした。プロ野球界の古い体質に風穴を開ける存在として、多くの注目を集めていました。
仙台でも、ライブドアの新球団構想に期待する声は少なくありませんでした。
「仙台にプロ野球チームが来るかもしれない」
その期待を最初に大きく膨らませたのは、楽天ではなくライブドアだったのです。
ちなみに、もし「仙台ライブドアフェニックス」が実現していた場合、初代監督には、阪神タイガースやヤクルトスワローズでプレーしたトーマス・オマリー氏が就任する方針だったとされています。
もしライブドアが参入していたら、仙台のプロ野球史はまったく違うものになっていたかもしれません。
後から現れた楽天
ライブドアに続く形で、三木谷浩史氏が率いる楽天も新規参入を表明しました。
当初の世論では、「最初に動いたライブドアを応援したい」という空気もありました。後発だった楽天には、やや不利な印象もあったといえます。
しかし楽天は、企業としての経営基盤や安定性、そして球団経営の将来性を強く打ち出しました。
親会社に頼り切るのではなく、チケット販売、広告、球場運営、飲食、グッズ販売などを組み合わせ、球団単体の収益力を高めていく。
楽天は、従来のプロ野球球団とは違う経営モデルを掲げていました。
そして2004年11月2日、プロ野球オーナー会議で楽天の新規参入が正式に承認されます。
これにより、1954年の高橋ユニオンズ以来、50年ぶりとなる新規参入球団が誕生しました。
なぜ仙台だったのか?楽天にとって最初から本命だったわけではない
いまでは「楽天といえば仙台」というイメージが定着しています。
しかし、創設当時の経緯をたどると、仙台は楽天にとって最初から本命だったわけではありません。
楽天側では当初、神戸や大阪など、関西圏を本拠地候補として検討していたとされています。三木谷氏自身が兵庫県出身であることを考えても、関西圏を候補にするのは自然な流れでした。
ところが、近鉄とオリックスの合併によって誕生したオリックス・バファローズが、兵庫県と大阪府を保護地域とします。
そのため、楽天は関西圏以外の本拠地候補を探す必要に迫られました。
そこで浮上したのが、すでにライブドアが新球団構想で注目を集めていた宮城県・仙台市です。
仙台は東北地方最大の都市であり、プロ野球球団の空白地でもありました。かつてロッテオリオンズが1973年から1977年にかけて宮城球場を使用していた時期はありましたが、その後、仙台を本拠地とするプロ野球球団は存在していませんでした。
つまり仙台には、プロ野球への渇望がありました。
結果として楽天は、東北・仙台を本拠地とする新球団としてスタートすることになります。
これは「最初から仙台ありき」というよりも、球界再編、保護地域、ライブドアの先行、地域の期待といった複数の要素が重なった末の決定でした。
だからこそ、楽天イーグルスの仙台誕生には、ただの地域密着とは違う面白さがあります。
チーム名「東北楽天ゴールデンイーグルス」の由来
2004年10月22日、楽天は新球団の名称を「東北楽天ゴールデンイーグルス」と発表しました。
「ゴールデンイーグル」とは、イヌワシの英名です。イヌワシは東北地方にも生息する天然記念物で、力強く空を舞う姿から、新球団の象徴として選ばれました。
そして、球団名に「東北」と入っている点も大きな特徴です。
単に「仙台楽天」ではなく、「東北楽天」。
これは、仙台市や宮城県だけでなく、東北地方全体に根ざす球団であることを示しています。
後の2013年、日本一になったときに「東北のために」という言葉が大きな意味を持つことを考えると、この「東北」という名前は非常に重要です。
チーム名の裏で起きていた商標をめぐる攻防
ただ、チーム名の決定もスムーズだったわけではありません。
新規参入を争っていたライブドア側が、「ゴールデンイーグルス」に関連する商標を先に出願していたと報じられています。
楽天側は球団名を発表したものの、商標の扱いについてライブドア側との調整が必要になりました。
これは、ライブドアと楽天の新規参入争いが、単なるプレゼン勝負ではなかったことを物語っています。
球団名、商標、世論、経営基盤、地域の期待。
あらゆる要素が絡み合う中で、東北楽天ゴールデンイーグルスという名前は生まれました。
現在では「楽天イーグルス」という略称がすっかり定着していますが、その名前の裏にも、当時の生々しい競争の名残があるのです。
「球場をディズニーランドに」楽天が描いたボールパーク構想
楽天が目指したのは、単にプロ野球の試合をする場所を作ることではありませんでした。
三木谷氏の球場づくりの発想には、「野球場をディズニーランドのような非日常空間にしたい」という考え方がありました。
これは、当時の日本プロ野球界ではかなり新しい発想でした。
従来の球場は、基本的には「野球を見る場所」でした。もちろん応援の熱気や売店の楽しさはありましたが、球場そのものをエンターテインメント空間として作り込む発想は、まだ今ほど一般的ではありませんでした。
楽天がやろうとしたのは、野球に詳しい人だけが集まる場所ではなく、家族連れも、子どもも、ライトなファンも楽しめる場所を作ることです。
飲食、グッズ、イベント演出、広告、ファンサービスまで含めて、球場全体をひとつのレジャー空間に変えていく。
つまり楽天は、仙台に「野球を見る場所」ではなく、「遊びに行きたくなる球場」を作ろうとしていたのです。
本拠地となった宮城球場は、当時老朽化が進んでおり、プロ野球の本拠地として使うには大規模な改修が必要でした。
楽天は球場の改修を進めるとともに、広告、飲食、グッズ販売などの収益を球団経営に結びつける仕組みを整えていきます。
このボールパーク構想は、現在の楽天モバイルパーク宮城にもつながる、楽天イーグルスらしさの原点のひとつです。
選手集めの苦難。不利な条件から始まった新球団
新球団にとって、最初に立ちはだかった大きな壁が選手集めでした。
東北楽天ゴールデンイーグルスは、近鉄とオリックスの合併に伴う分配ドラフトによって選手を獲得しました。
しかし、この仕組みは楽天にとって決して有利なものではありませんでした。
合併球団であるオリックス側が主力選手を優先的に確保できたため、楽天に回ってきたのは、実績の少ない若手選手や、キャリアの後半に差しかかったベテラン選手も多かったのです。
もちろん、彼らにも意地があり、プロとしての誇りがありました。
ただ、戦力として見れば、創設1年目から他球団と互角に戦うにはかなり厳しい状況だったことは否定できません。
楽天イーグルスは、ほとんどゼロからチームを作るような状態で、2005年シーズンに向かっていきました。
岩隈久志投手の加入
そんな中で、楽天にとって大きな存在となったのが岩隈久志投手です。
近鉄のエースだった岩隈投手は、オリックスではなく、新球団である楽天でプレーする道を選びました。
最終的に金銭トレードという形で楽天へ加入します。
創設初年度の楽天にとって、岩隈投手の加入は戦力面だけでなく、精神的にも大きな意味を持ちました。
「このチームで戦う」と覚悟を持って来てくれたエースがいる。
それは、寄せ集めと言われかねなかった新球団にとって、大きな支えになったはずです。
一場靖弘投手の獲得
もうひとつ大きな出来事が、一場靖弘投手の獲得です。
一場投手は大学球界の有力投手として注目されていましたが、いわゆる「栄養費問題」によって、複数球団との関係が問題視されました。
その影響もあり、他球団が指名を見送る中で、楽天は一場投手を自由獲得枠で獲得します。
創設直後の球団にとって、有望な若手投手の獲得は、将来に向けた重要な一歩でした。
楽天は、厳しい条件の中でも、少しずつチームの土台を作っていくことになります。
2005年開幕。初戦勝利の翌日に0対26
2005年3月26日、東北楽天ゴールデンイーグルスは球団初の公式戦を迎えます。
相手は千葉ロッテマリーンズ。
この試合で先発した岩隈久志投手は完投し、楽天は3対1で勝利しました。
球団創設初戦での勝利。
これは、仙台や東北のファンにとって大きな喜びでした。
「もしかして、この新球団はやれるのではないか」
そんな期待を抱いた人も多かったかもしれません。
しかし、その夢のような空気は、翌日に一気に現実へ引き戻されます。
2005年3月27日、楽天は千葉ロッテマリーンズに0対26で敗れました。
完封試合としてNPB史上最大タイの得点差となる、衝撃的な大敗です。
初戦で勝って、翌日に0対26。
このあまりにも激しい落差こそ、創設初年度の楽天イーグルスを象徴する出来事のひとつです。
ファンの間では後に、「26点差まではセーフティリードではない」といった自虐的なネタとして語られることもありました。
笑い話のようでいて、当時のチームがどれだけ苦しい戦いを強いられていたかを示すエピソードでもあります。
“勝てなかったから黒字”という皮肉な船出
2005年シーズンの楽天は、最終的に38勝97敗1分でパ・リーグ最下位に終わりました。
首位との差も大きく、戦力面では他球団との違いを痛感するシーズンでした。
しかし、ここで楽天イーグルス創設初年度の面白い、そして少し皮肉な話があります。
成績面では歴史的な苦戦を強いられた一方で、経営面では初年度から黒字を達成したとされています。
その理由のひとつとして語られるのが、「チームが勝てなかったことで、選手に支払う出来高、いわゆる勝利ボーナスなどの支出が想定より少なく済んだ」という話です。
もちろん、黒字の背景には、球場運営、広告、物販、チケット販売などの収益化もありました。
ただ、創設1年目の楽天は、“勝てなかったこと”までもが経営面ではプラスに働いたと語られることがあります。
これほど皮肉な船出も、なかなかありません。
グラウンドでは負け続ける。けれど、経営では黒字を出す。
このアンバランスさこそ、楽天イーグルスがそれまでのプロ野球球団とは違う存在として始まったことを象徴しているようにも見えます。
三木谷オーナーの現場介入と、創設期の混乱
創設初年度の楽天では、成績不振を受けて、三木谷氏による現場への強い関与も話題になりました。
当時の報道では、監督に対して具体的な改善レポートの提出を求めるなど、オーナーが現場に踏み込む場面があったとされています。
プロ野球の世界では、フロントと現場の距離感は非常に繊細です。
経営者としては結果を求めたい。一方で、監督やコーチには現場の判断があります。
この距離感の難しさも、創設期の楽天が抱えた課題のひとつでした。
IT企業らしいスピード感と、プロ野球という長い歴史を持つ世界。
その文化の違いが、創設初年度にはさまざまな形で表れていたのです。
不平等、混乱、そして東北の希望へ
東北楽天ゴールデンイーグルスは、決して順風満帆に生まれた球団ではありません。
近鉄とオリックスの合併問題。
1リーグ制構想をめぐる混乱。
古田敦也選手会長率いる選手会のストライキ。
ライブドアと楽天による新規参入争い。
仙台が本拠地に決まるまでの複雑な経緯。
商標をめぐる攻防。
不利な条件での選手集め。
初戦勝利の翌日に0対26。
そして、勝てないのに黒字という皮肉な初年度。
こうして並べてみると、楽天イーグルスの誕生は、きれいな成功物語というより、混乱の中から無理やり産声を上げたような出来事でした。
でも、だからこそ面白いのです。
そして、だからこそ2013年の日本一には、特別な意味がありました。
東日本大震災からの復興を歩む東北で、創設9年目の楽天イーグルスが初のリーグ優勝、そして日本一を達成する。
それは単なるスポーツの勝利ではなく、東北の人々にとって大きな希望になりました。
2004年の混乱があり、2005年の惨敗があり、そこから積み重ねた時間があったからこそ、2013年の歓喜はより大きな意味を持ったのです。
東北楽天ゴールデンイーグルスは、最初から強かった球団ではありません。
最初から仙台の本命として用意されていた球団でもありません。
むしろ、不利な条件と混乱の中で生まれ、負け続けながら、少しずつ東北に根を張っていった球団です。
その始まりを知ると、楽天イーグルスというチームが、なぜ東北の人々にとって特別な存在なのかが見えてきます。
創設の物語は、決して美談だけではありません。
でも、その泥くささこそが、楽天イーグルスの原点なのです。
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